店長のブログ :
初めて2019-10-23 by 松岡
2日目の昼食は京都のMさんが手配してくれた妙心寺(京都花園)近くの精進料理店。
予約時間までの1時間。8人全員で妙心寺境内を散策することにしました。
門をくぐると、広大な敷地にいくつもの伽藍が建ち並び、杉のように真っ直ぐ天に向かって伸びた何本もの松がありました。
台風が来ない京都ならではの真っ直ぐに伸びた松を見たのは初めてです。
(着物のすそをからげた1人の僧侶が下駄で托鉢に向かう姿を見たのも初めてです。)
風から身を守る為、横に曲がる松。乗鞍岳山頂付近で見かけたハイマツはその典型です。海岸付近に防風林として植えられた松も曲がっています。人の手で曲げられた盆栽の松は曲がってなんぼのものです。
風の影響も無く、人の手も加わらないと松は真っ直ぐ天に向かって伸び続けられる。
人も素直な心で毎日を過ごせれば真っ直ぐ夢の実現に向かって伸びることが出来ることを気づかせようとしているのかもしれないと思った虎雄です。
8人が低い石垣に腰掛けながら会話を楽しんだ妙心寺境内。
後日Googleで検索してみると、
妙心寺は
臨済宗妙心寺派総本山
だとわかりました。
敷地が広大なわけです。
ホームページに掲載されている法話を紹介させて頂きます。
タイトル
「からっとした秋空のように」
秋たけなわ、空は澄みわたり清々しい季節となりました。「廓然無聖(かくねんむしょう)という禅語があります。武帝(仏心天子とうたわれた粱の皇帝)が「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義(この上ない仏法とはどんなものか?)と達磨大師に問うたのに対して、達磨大師が答えた語です。「廓然」は「心が大空のように晴れて、わだかまりがなく広いさま」という意味を表しますから、「秋空のようにからっとして聖なんてものは無い」と訳すことができましょう。
でも、本当に「聖は無い」という理解でよいのでしょうか?
湯川秀樹博士に次いで、日本で二番目にノーベル賞(物理学賞)を受賞した朝永振一郎博士(1906年~1979年)の生き方に学びたいと思います。
お前は物理学が好きなのだろうという質問をよく受ける。考えてみると、大学を出てから30年以上も物理で飯を食ってきたわけだから、嫌いだったとは言えないかもしれない。しかし、寝食を忘れてそれに没頭したとか、研究に一生の情熱をささげたとかいった、えらい学者を形容するお決まりの文句はおよそ使えないように思われる。
(中略)
仕事がうまくいった時の喜びも、考えてみれば、純粋な真理追求の喜びでは、なかったようだ。そこには功名心という雑念が入っている。また、本当に、学問自身にうち込んで、真理自体を知ることに幸福を見出すのなら、誰のやった発見でも、それを学ぶことに無上の喜びを感じるはずである。ところが実際はそうなっていない。今だから白状するが、湯川理論ができた時には、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の羨望の念を禁じ得なかったことも正直のところ事実である。
本当のえらい学者はこんな雑念に悩まされることはないはずだ。それに比べて、まるで雑念妄想のかたまりのような自分の、何とつまらない者であることよ。
こんなことを繰り返し繰り返し考えたものである。
朝永振一郎
「見える光、見えない光」
朝永振一郎博士のからっとした、わだかまりのない生き方が見えてきます。研究者に対する「聖」のイメージは「寝食を忘れて研究に没頭する。」「研究に一生をささげる。」というようなものでしょう。博士は「自分はそうではなかった。」とうちあけています。
もとより、「聖」で生きることは理想であり、しがみつくのは、逆に「聖」から離れてしまうのだと感じました。
実は武帝がそうだったのではないでしょうか?
「聖」なる生き方をしたいと願いつつも、雑念に悩んだり邪念や妄想が湧くのが人間です。博士のように、自分自身をよく見つめ、聖も自分、凡も自分、成功もよし、失敗もよし、どちらもと尊いものであると見て、人生を歩んで行く。そうすれば、ノーベル賞とまではいかないにしても、秋空のように広々とした心で生きられることでしょう。 (服部雅昭)

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